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決勝戦前日
午前中に軽く練習を終えた後の午後、大広間に全員揃ってのミーティングが行われている

決戦間際の割に、場の空気は和やかそのもの
VTRを見た後各自それぞれ談笑していると、渡島はどこからかボードを持って来ている

「まあ、今更ごちゃごちゃ言っても始まらないんだがな。これも給料のうちだ」
渡島が笑みをたたえながらそう言ったので、また部員たちはどっと沸く

「明日のスタメンを発表する前に、まず相手の分析からなのだが」
渡島はそう言うと、ボードに相手スタメンの名前を書き始める

「まず1番のセンター塩見。彼は引っ張るのが得意な打者だ。進藤は気を付けるように」
それでまた部員たちからは笑い声が巻き起こる
キョトンとした様子の祐里が思わずどういうこと? と問うと、即座に渡島はニヤリと笑って後で杉浦に聞けと返している

「1番の危険人物は3番の坂本だ。守備も打撃ももちろん怖いんだが、それ以上に進藤は注意してくれ」
またも渡島がボケをかましている。そして詳しくは後で杉浦に聞けばいいと続けるので、部員たちの笑い声は絶えない
ただ一人、祐里は訳が分からずキョトンと首を傾げているだけ

「監督、先発誰で来ますかね? 井口はリリーフだと思うんですが」
浩臣がそう訊くと、渡島は空欄だった相手投手の場所に『古谷』と書いてみせる

「順番から行くと山口が来そうだと思わせて、きっと古谷だ。昨日2イニングしか投げてないからな、あれは調整のはずだ」
今までほぼ読み違えたことがない渡島が言うと、それはとても説得力がある

右の本格派山口、左の速球派古谷
西陵は右打者が多いだけに、右の山口と予想するのが定石なのだろうが、何度も修羅場を潜り抜けてるからこその渡島の勝負眼

「うちは予選通して、左と当たってない。練習試合でも古谷には抑えられているしな」

竜也も内心、あまり得意じゃないんだよなという思いがあった
今迄バレていないだけで、実は速いストレートに苦手意識がある。130キロ台なら誤魔化せるが、140を超えて来ると実は当てるのが精一杯だったり
多分150キロなんて出された日には、空振りしかしないだろうなって

「あ、そうそう。明日は貴重品持って行くなよ。なにせあいつらは窃盗団だ」
渡島がそう締めると、我に返った祐里があははと笑ってそれに乗じている

「竹高に盗まれるからね。財布はホテルの金庫に仕舞っておいたほうがいいよ」
“シーフ”の異名を取る恒星高校野球部マネージャー・竹高を揶揄すると、部員たちの笑い声はさらに大きくなる

“竹高は大切なものを盗んでいきました。それはあなたの財布です”

「では、明日のスタメンを発表するぞ」
笑い声が収まった瞬間、渡島がそう口にすると場の空気は一変する
誰だってスタメンで出たい。まして明日は決勝戦
一斉に全員が真剣な眼差しに変わっている

さすがの竜也も、この時ばかりは緊張感を帯びたそれに変わっている
明日スタベンだったら一生凹むかもしれない、的な

「1番...の前に、先発は久友で行く。よろしく頼むぞ」
渡島はそう告げ久友と握手を交わしつつ、竜也のほうを見てニヤリと笑う
まさかの焦らしプレイに苦笑していると、祐里は竜也の右肩をポンと叩いている

「あんた今、自分の名前呼ばれると思ってドキっとしたでしょ」
言われるまでもない事だったので、竜也が小さく頷くと祐里はドンマイと声をかけて再び渡島の方へ視線を向けている

「じゃあ改めて。1番セカンド、杉浦」
渡島はそう告げると、竜也に右拳を出してグータッチを促した

2番ショート草薙、3番サード岡田、4番キャッチャー千原、5番ホワスト樋口、6番ピッチャー久友、7番センター和屋、8番ライト大杉、9番レフト天満
“左対策”で万田に代えて大杉、今大会絶不調の安理に代えて天満を起用する大胆なラインアップ

「泣いても笑っても後1試合。これを勝たないと何も始まらないぞ」
言って、渡島は全員を改めて見渡す。スタメンに選ばれた者、外れた者。分け隔てなく、全員で闘おうと声をかける

「甲子園という夢。いったん掲げたら堂々とそれを目指せ。戦いの前から負け犬になるな。人生は100年も続かない。まして高校野球のキャリアなどたった3年だ。その短い選手生命の中で、何か歴史に残ることをしようじゃないか」
渡島はそう締めると、主将の千原が「よっしゃ勝つぞ!」と一声上げる

それで場が最高潮に盛り上がる中、竜也は浩臣にそっと声をかけている

「久友ちゃんが行けるとこまで行って、あとは伊藤くんだな」
渡島はこの場ではそう告げてはいないが、きっとそうなるであろう事実をさらっと竜也が言うと浩臣はニヤリと不敵な笑みを浮かべた

「まあそうなるだろうけどな。ていうか打てよ。明日勝たないと全部無駄になるんだからさ」
浩臣が改めて檄を飛ばすと、竜也も不敵な笑みで返している

「打つほうは何とかするから。とにもかくにも明日は伊藤くん次第だって。これマジ」
決め台詞を言ってしたり顔をしていた竜也だったが、不意に背後から肩を叩かれる
ん? という感じで竜也が振り返ると、そこには妙に真剣な眼差しの安理の姿
どうした? と竜也が思わず声をかけると、安理はなぜか深々と頭を下げている

「こないだはすまなかった。あまりにも軽率な発言だった」
唐突な謝罪だったが、竜也には思い当たる節がまるでない
一瞬の逡巡で何があったかを考えるが、思いついたのは光と渚にサインをしようとしていたことくらい
いや、それで頭を下げる必要ないよな...?

「あ、ごめん。言ってなかったわ」
やり取りを静観していた浩臣は事に気づき、手短に竜也に説明した
なる、と竜也は頷くが、すぐに首を振って安理の顔を上げさせる

「サボってると捉えられてもしゃあないしな。別にいいよ」
あっさり竜也がそう言ったので、安理はそれじゃ僕の気が済まないんだがという感じで食いついてくる
そこで竜也は一計を案じて、心配そうにやりとりを眺めていた祐里を手招きで呼ぶ

祐里がやって来たのを確認すると、竜也は安理に対して先程と同じような不敵な笑みを浮かべる

「さっき渡島監督が言ってた、塩見と坂本についての説明を玉子がしてくれるってさ」
竜也が涼しい顔でそう言ったのを聞いて、浩臣は思わず吹き出している
祐里はあぁ、さっきのという感じで頷いているが、安理はオイ、やめろと素に戻ってそれを拒絶している

「それでチャラにしてやるから。じゃあ後よろしくな」
言って、竜也は浩臣を誘って部屋からログアウトへ

おい、僕がセクハラするみたいになるじゃないか?!
安理の悲痛な叫び声が廊下にまで反響していた